上杉 景勝
うえすぎ かげかつ《うへすぎ かげかつ》
1555
1623(元和 9. 3. 2)
◇安土桃山・江戸初期の武将。幼名は顕景、通称は喜平次のち
弾正少弼・会津中納言。長尾政景(マサカゲ)の次男、母は長尾為
景の娘。叔父上杉謙信(ケンシン)の養子。
父政景の死後、謙信の養子となる。1578(天正 6)養父謙信が
没し、同じ謙信の養子で北条氏康の子[2]景虎と争う(御館の乱)。
翌年[2]景虎が援けを求めた武田勝頼に東上野の地と黄金1万
両の申し出て兵を収めてさせ、[2]景虎を孤立させて滅ぼし、
謙信の遺領の越後・加賀・能登・佐渡・越中を支配。織田信長
に能登・越中を奪われ、北信濃を侵され、越後には反乱が起こ
る。
信長の死後、1583(天正11)豊臣秀吉に仕え、1586(天正14)従
四位下左近衛権少将兼弾正大弼、1588(天正16)正四位下参議、
秀吉から豊臣・羽柴の称号を許される。1590(天正18)小田原征
伐、1592(文禄元)文禄の役に功をたて、1594(文禄 3)従三位中
納言に叙任。1597(慶長 2)豊臣氏五大老の一に列し、1598(慶
長 3)陸奥国会津120万石を領する。
1600(慶長 5)関ヶ原の戦に石田三成と結んで徳川家康打倒の
兵を挙げるが、敗れて出羽米沢30万石に移封。1614(慶長19.11.)
大坂冬の陣、1615(慶長20. 5.)夏の陣には家康に従う。
1922(大正11)正三位を遺贈。
(*)1555(天文24