吉田 松陰
よしだ しょういん
1830. 9.20(文政13. 8. 4)
1859(安政 6.10.27)
◇江戸末期の志士・長州藩の下級武士。名は矩方(ノリカタ)、字は
義卿、通称は寅次郎、別号は二十一回猛士。杉百合之助の次男。
1835(天保 6)叔父吉田大助賢良の養子となり、翌年大助が亡く
なり兵学師範吉田家を嗣ぎ、大次郎と改称。
1840(天保11)10歳で藩校明倫館において藩主の前で講義を
行う。1845(弘化 2)山田亦助に長沼流兵学を学び、翌年免許。
1851(嘉永 4)藩主に従い江戸に出て佐久間象山(サクマ・ショウザン)に
洋学(砲術)を学ぶ。
1852(嘉永 5)脱藩。1853(嘉永 6)ペリー来航を機に幕府にい
きどおり尊皇攘夷にめざめ、1854(嘉永 7. 3.21)ペリー再航の
際に密航を企てる。 3.27弟子の金子重輔(シゲスケ)とともに下田
沖の旗艦ポーハタンに乗り込み、拒絶され失敗、姉崎の名主に
自首。下田の番所で糾問され江戸に護送、のち藩に幽閉。
1857(安政 4)萩に松下村塾(ショウカソンジュク)を開いて高杉晋作(シ
ンサク)・久坂玄瑞(ゲンズイ)・木戸孝允(タカヨシ)・伊藤博文・山県有
朋(ヤマガタ・アリトモ)ら尊攘派志士を教育。
1858(安政 5)幕府の日米修好通商条約調印に関して老中間部
詮勝(マナベ・アキカツ)の要撃を謀って捕らえられ(安政の大獄)、翌
年江戸に送られ伝馬町の獄舎で斬刑。
辞世の句は「親思ふ心にまさる親心けふのおとづれ何と聞く
らん」。
著書は『西遊日記』・『講孟剳記(コウモウトウキ)』・『留魂録』
など。
(+)岩波新書(青版55)『吉田松陰』奈良本辰也:著昭和26年 1月15日第 1刷発行昭和49年 5月20日第24刷発行
◆回向院に葬られたのち、1863(文久 3)門人により世田谷の毛
利大膳太夫抱屋敷に改葬、松陰神社(世田谷区若林)となる。
◎号の「二十一回猛士」の「二十一」は実家の姓の「杉」を分解し、
「木」を「十八」に、「彡」を「三」とし合計したもの。「猛士」は中国
の孟子から。