山田 長政
やまだ ながまさ
生年不詳
1630(寛永 7)
◇江戸初期の海外渡航者。通称は仁左衛門。駿河の人。
台湾を経て、シャムに渡る。アユタヤ朝ソンタム王の信任を
得、軍事・貿易に功をたて、国王の娘を娶り、最高の官職オヤ
・セナピモクに昇る。
1628(寛永 5)王が没し、王位継承の紛争が起きると、幼王を
擁立したが、故王のいとこオヤ・カラホムにリゴール(六昆)太
守に左遷させられ、のち毒殺される。
(2)没年は1630(寛永 7)。
もと沼津城主大久保忠佐の駕籠舁(カゴカキ)(「異国日記」)。1611
(慶長16)ころ朱印船にのってシャムに渡り,アユチャ東南の日
本人町に住む。城井久右衛門についで日本人町の頭となり,内
戦・外冦に功をたて,国王ソンタムの信任を得て最高の官位に
まで昇進した。1628(寛永 5)王の死後,王位継承の争乱を鎮定
し,王子を即位させることに成功。のち王位をねらう王族の野
心家オヤ=カラホムによって六昆<リゴール>大守に左遷され,パニ
タの侵入軍と対戦中に負傷し,その手当の際に,毒薬が全身に
まわって没した。長政の子は六昆の町を焼いてカンボジアに走っ
たが,のちシャム軍と交戦中没した。
(4)没年は1630。
元和年中、台湾を航し、シャムに渡り、国都アユチャの日本
人町の邦人を糾合して同国の内乱を鎮め、六昆<リゴル>国を討っ
た。その功により六昆王に封ぜられ、わが国との通交を図った。
国王の女を妻としたが、王の没後、毒殺。
(6)没年は1630。
1612年ごろシャムに渡り,アユタヤ朝ソンタム王の信任を得
て最高の官爵オヤ・セナピモクに登る。王の死後(1628)ののち
王位継承の紛争が起こると幼王を擁立,日本人隊およびシャム
兵2万を率いて反乱を鎮定。故王のいとこオヤ・カラホムにリ
ゴール(六昆)太守に左遷され.シャム人に毒殺された。遺子オ
コン・セナピモクが自立して戦ったがカンボジアへ敗走。日本
人町はシャム軍に焼き払われた。
(16)没年は1633(寛永10)。
若くして大志があり,元和(1615〜23)の頃に27才にして駿河
の貿易商人に従って台湾に渡り,さらにシャムに渡って国王に
用いられ,自ら商船を日本に派遣して貿易を営むと同時に国交
の親善にも尽力した.国王は娘を彼に娶あわし,六昆(リゴル)王
とした.また彼はシャムに流浪して来た日本人を集めてその軍
の中核となし,国都アユチヤに日本人街をつくって同国の内乱
を鎮定し,貿易商人にも便を与えたが,のち国王の死後内乱が
シャムに起こり彼は毒殺された.
(17)生国として伊勢・尾張・長崎・駿府の四説があるが、駿府
の可能性が一番高いとされている。駿府の紺屋津国屋(ツノクニヤ)
九左衛門の子として、天正十八年(一五九○)に生れたと考えら
れる。慶長十二年(一六○七)ごろ駿府を出て沼津に至り、沼津
藩主大久保忠佐の駕籠かきとなった。同十七年(一六一二)ごろ、
駿府商人の仕立てた主印船で台湾を経てシャムに渡っている。
元和六年(一六二○)ないし翌七年にはすでにアユタヤ日本人
町の頭領となっており、次第にアヤタヤ国王の信頼を得てゆき、
日本人義勇軍を率いて国王の親衛隊長となり、また、スペイン
艦隊を破るなど、アユタヤ王朝の軍事部門担当者として活躍し
た。その間、オーククンからオークルオング、さらにオークプ
ラ・セーナピモックというように官位が昇進し、日本の老中宛
に書翰を出せるまでになっていた。軍事部門だけでなく、貿易
部門においても能力を発揮し、日本とシャムとの貿易を一手に
握っていた。
ところが、寛永五年(一六二七)、長政を重く用いてきたアユ
タヤ王ソングタムが没し、その子ジェッタの擁立に動いたが、
そのジェッタが殺され、摂政となったカラホムの陰謀によって
長政を中央政界から遠ざけ、シャムの南西部のリコ゜ールとい
う地方の王にさせられてしまった。当時、リゴールは隣接する
パニタとの戦いがくりかえされており、長政はその戦いで怪我
をし、家臣にその傷口に毒を塗られて死んでしまった。寛永七
年(一六三○)のことで、遺骨はタイのプラ・タンマサーラーの
チェディに安置されたという。
◎静岡市の浅間神社に1626(寛永 3)長政が奉納した軍船図の写
しがある。