石田 三成
いしだ みつなり
1560(永禄 3)
1600(慶長 5.10. 1)
◇安土桃山時代の武将。幼名は佐吉、本名は宗成、別名は三也、
通称は治部少輔。近江国坂田郡北郷村字石田生れ。隠岐守(地
頭)石田正継の子。
近郊の観音寺で勉学中、豊臣秀吉に見出され、1572(元亀 3)
13歳で豊臣秀吉に仕える。1583(天正11)賤ヶ岳(シズガタケ)の戦
で軍功をたてる。
1585(天正13)秀吉が関白に任じられた時、従五位下・治部少
輔となり三成と改名、奉行になる。三成は五奉行の一人で太閤
検地など経済面に活躍。
1587(天正15)九州征伐に従軍。1590(天正18)小田原征伐に従
い館林・忍(オシ)両城を攻める。文禄・慶長の役では朝鮮に渡り、
軍需品の輸送(兵站)などに活躍。1595(文禄 4)佐和山城主に封
ぜられる。
1598(慶長 3)秀吉の没後、加藤清正・黒田長政らに弾劾され、
佐和山城に蟄居。1600(慶長 5)徳川家康の上杉征伐の出陣に当
り、会津の上杉景勝(カゲカツ)や毛利輝元(テルモト)・宇喜多秀家(ウキ
タ・ヒデイエ)ら西国大名と謀り、豊臣秀頼(ヒデヨリ)(秀吉の子)を擁
して挙兵、1600(慶長 5. 9.15)関ヶ原に敗れ(関ヶ原の戦)、捕
われて京都六条河原で斬首。
◎秀吉に見出されたときの逸話。長浜城主の羽柴秀吉が狩姿で
寺を訪れ茶を所望した。接待に当った三成は、はじめ大きい茶
碗にぬるめの茶を七分目ほど入れ、二服目にはやや熱つくして
半分ほどにし、三服目は小さい茶碗に換えて熱い茶を献じた。
この気配りに秀吉は感心し、近侍に取り立てたという。
また、関ヶ原で逃れて捕われ、浅野幸長(ヨシナガ)や本多正純
(マサズミ)らに生き恥をさらしたと罵(ノノシ)られたとき、三成は命
さえあれば家康を討つ機会があるからだと言い放ったという。
(2)'95(文禄 4)年近江国佐和山城主となり19万4千石を領す。
(4)佐和山一八万石の城主。
(6)95年近江(オウミ)佐和山城主として20万余石を領する。
(16)ついで佐和山城18万6千石を封ぜられた.
(17)近江佐和山十九万四千石に封ぜられた。