源 義経
みなもとのよしつね
1159(平治元)
1189(文治 5.閏4.30)
◇平安後期の武将。幼名は牛若丸(ウシワカマル)・遮那王(シャナオウ)、
源九郎(ゲンクロウ)・九郎判官(クロウホウガン)ともと号する。京都生れ。
源義朝(ヨシトモ)の九男、母は九条院雑仕(ゾウシ)常盤(トキワ)御前。
本妻は河越重頼(カワゴエ・シゲヨリ)の娘。
平治の乱で父義朝を失い、母常盤とともに捕われたが、母が
平清盛(キヨモリ)の妾になり、出家を条件に死を免ぜられ鞍馬寺に
送られ、遮那王と改名。のち京都を逃れ奥州平泉(ヒライズミ)の藤
原秀衡(ヒデヒラ)の許に身を寄せる。
1180(治承 4. 8.)異母兄源頼朝(ヨリトモ)の挙兵を聞いてはせ参
じ、10月駿河国黄瀬川宿(キセガワジュク)で対面する。1183(寿永 2)
末、異母兄源範頼(ノリヨリ)とともに源(木曾)義仲(ヨシナカ)追討の代
官となる。1184(寿永 3. 1.)義仲を破り入洛、さらに平氏追討
を命ぜられ、2月摂津国一ノ谷鵯越(ヒヨドリゴエ)の奇襲により平
敦盛(アツモリ)・知章らを討つ。
凱旋して京都にとどまり守護の任にあたる。この間に後白河
法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉(判官)
に任官したことから、頼朝の怒りを買い平氏追討の任を解かれ
る。
しかし西海道に出撃した範頼軍が苦戦を重ねたため、1185
(元暦 2. 1.)再び兵士追討使に起用されると、2月阿波に渡り
陸路讃岐屋島(ヤシマ)を奇襲して平氏を破る。つづいて 3.24長門
国壇ノ浦の海戦で平氏を全滅させる。しかし安徳天皇は入水し
神器も失い、また義経の独断専行から軍監梶原景時ら鎌倉御家
人と対立したため、頼朝の不興をかって鎌倉入りを許されなかっ
た。
やむなく京都に戻ると10.17頼朝派遣の刺客土佐坊昌俊(トサボ
ウ・ショウシュン)の襲撃を受ける(堀河夜討)。そこで頼朝と対立して
いた叔父源行家(ユキイエ)と結び後白河から頼朝追討の院宣(インゼン)
を得る。頼朝はこれを聞いて直ちに兵を送ったため、義経は畿
内を転々とし再び秀衡を頼り奥州に行く。
1187(文治 3.12.)秀衡が没し、1189(文治 5.閏4.)頼朝の圧
力に屈したその子泰衡(ヤスヒラ)によって依川の館(コロモガワノタテ)を
襲撃され自刃。義経の首は黒漆塗りのの首桶に酒漬けにされて、
6.13鎌倉の腰越(コシゴエ)に送られ、和田義盛(ヨシモリ)と梶原景時
(カゲトキ)が首実検したという。
再び秀衡を頼り奥州平泉に落ち延びて行く途中、山伏に変装
した義経の主従一行が加賀国安宅(アタカ)の関を越えるとき、疑
われて弁慶がニセの勧進帳(カンジンチョウ)を読み上げ義経を杖で打
ち据え、関守の富樫介(トガシノスケ)が情けをもって見逃す逸話が
歌舞伎にある。
義経が大陸に渡りジンギスカンとなったとする説は、1924
(大正13)小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』などによる。