水野 忠邦
みずの ただくに《みづの ただくに》
1794(寛政 6. 6.23)
1851(嘉永 4. 2.16)
◇江戸後期の幕府老中首座。幼名は於莵五郎、号は松軒・菊園、
通称は越前守。唐津藩主忠光の次子、忠精の父。
1812(文化 9)6万石襲封(実封25.3万石)。1817(文化14)寺社
奉行。唐津藩主から1817(文化14)6万石浜松(実封15.3万石)に
願い出て転封。
1825(文政 8)大坂城代・1826(文政 9)京都所司代・1828(文
政11)西丸老中・1834(天保 5)本丸老中・1837(天保 8)御勝手
掛を歴任。
1841(天保12)将軍家斉が薨じて家慶が将軍に就任するとこれ
を助け、腹心鳥居耀蔵(ヨウゾウ)・渋川六蔵・後藤三右衛門を登
用し天保の改革に着手。奢侈禁止・風俗粛正に努めたが、苛酷
に過ぎて庶民の怨みを買い、また1843(天保14)上知令を断行し
ようとして大名・旗本の反対で失脚。
翌年外国問題紛糾によって再び老中と復活したが、登用した
鳥居耀蔵らの在職中の不正疑獄により1万石没収・隠居謹慎、
子の忠精は山形へ転封となる。
◎唐津から浜松への転封願いは、唐津藩が慣例によって長崎御
岡役の任務を負い閣老に登用されないため、忠邦が側近の諌止
を退けて願い出たものである。