正岡 子規
まさおか しき
1867.10.14(慶応 3. 9.17)
1902. 9.19(明治35)
◇俳人・歌人・写生文家。本名は常規(ツネノリ)、幼名は処之助(ト
コロノスケ)、通称は升(ノボル)、号は香雲・地風升・越智処之助(オチ・
トコロノスケ)・獺祭書屋(ダツサイショオク)主人・竹の里人(サトビト)・盗花。
伊予国温泉郡四丁目一番地(現:松山市新玉町)生れ。
1880(明治13)松山中学校入学。母方の叔父加藤恒忠(拓川)の
世話により1883. 6.(明治16)上京、神田共立中学校・一ッ橋大
学予備門(第一高等中学校)。予備門で夏目漱石を知る。1887.
12.(明治20)旧松山藩(常盤会)給費生となる。1889. 5.(明治22)
喀血、号を子規とする。1890. 9.(明治23)帝国大学文科大学哲
学科に入学、間もなく国文科に移る。1891(明治24)学年試験に
落第して給費を打ち切られ退学。
1892.12.(明治25)、加藤恒忠の友人陸羯南(クガ・カツナン)の日本
新聞社に入社。1893. 2.(明治26)喀血。
1895. 3.(明治28)日清戦争に従軍、 5.17帰国の船中で喀血、
5.23神戸病院に入院。この間に従弟藤野古白(潔)の自殺を知
る。8月、松山に行き、夏目漱石の赴任先に寄寓。
1900. 8.(明治33)大喀血。
◆子規忌(糸瓜忌・獺祭忌)[ 9.19]糸瓜(ヘチマ)は絶筆「糸瓜咲て
痰のつまりし仏かな」から。
(5)(明治)二三年東大国文科にはいる。
二○年一二月、子規は松山藩給費生となり、旧藩主久松侯の
経営している本郷真砂(マサゴ)町の常盤会(トキワカイ)寄宿舎にはいっ
た。
二五年、……。学年試験に落ち、大学退学、一二月日本新聞
社に入社した。
(18)(1883年の)翌年、旧松山藩主久松家の給費生となり、……。
90年帝国大学文科大学哲学科に進み,まもなく国文科に移る。
92年学年試験に落ち,大学を退学,陸羯南(クガカツナン)の日本
新聞社に入った。