細川 幽斎
ほそかわ ゆうさい《ほそかは いうさい》
1534(天文 3. 4.22)
1610(慶長15. 8.20)
◇安土桃山時代の武将・古典学者・歌人。幼名は万吉・万一郎、
諱(イミナ)は藤孝(フジタカ)、晩年剃髪し法号は玄旨(ゲンシ)幽斎。通
称は兵部大輔・二位法印。
足利幕臣三淵晴員(ハルカズ)の次男として生れ、幕臣細川元常
(モトツネ)の養嗣子となり、後年長岡氏を称した。京都・岡崎生れ。
1572(元亀 3)三乗西実枝(サネキ)から古今伝授を受け、近世歌学
の祖と称された。
将軍足利義晴(ヨシハル)・義輝(ヨシテル)に仕え、義輝殺害のあと義
輝の弟義昭(ヨシアキ)を保護し、1568(永禄11)織田信長を説得し義
昭を将軍にする。丹後23万石の田辺城主となり、1582(天正10)
本能寺の変後、明智光秀(子忠興<タダオキ>の岳父)の招きに応ぜ
ず、山崎の戦いで光秀を討ち滅ぼす。のち豊臣秀吉に仕え、秀
吉の死後は徳川家に属する。関ヶ原の戦の直前、石田三成の1
万5千余の大軍で田辺城を包囲されたとき、500に満たない手兵
で防戦、60余日籠城(ロウジョウ)する。この際し死を決意、古今伝
授が自分の死とともに杜絶することを憂慮し、使者をつかわし
てその秘事を八条宮智仁(トシヒト)親王に伝授した。