北条 氏康
ほうじょう うじやす《ほうでう うぢやす》
1515(永正12)
1571(元亀 2.10. 3)
◇戦国時代の武将・相摸小田原城主。幼名は伊豆千代丸のち
新九郎、通称は左京大夫・相摸守。北条氏綱の嫡男、母は伊豆
の地侍朝倉氏の娘。北条氏政・氏照(ウジテル)・氏邦(ウジクニ)・[2]
上杉景虎(カゲトラ)の父。
1541(天文10)父氏綱が没し、家督を継ぎ小田原城に拠る。同
年、扇谷(オウギガヤツ)上杉朝政に攻められ、かろうじて撃退。
1544(天文13)安房の里見氏が敵対し安房に出陣。1545(天文14)
今川義元(ヨシモト)と今井狐橋で合戦、義元に武田信玄(シンゲン)が
味方する。10月には味方であった古河公方北条晴氏も上杉朝政
と連合して城代福島(北条)綱成が守る3千の河越城を総勢8万
余騎の大軍で包囲する(河越の戦い)。このとき、信玄が氏康と
義元の仲介の労をとり、氏康に富士川以東を今川氏へ返還させ
る。今川氏と和睦した氏康は、翌年 4.20援軍を率い上杉(扇谷
・山内)と北条晴氏との連合軍を夜襲して撃退(河越の夜討)。
1552(天文21)上杉憲政を上野国平井城に攻め、上杉氏の所領
を併合。
1554(天文23)駿河国善徳寺で武田信玄・今川義元と会し、三
氏同盟が成立。子の氏政を信玄の娘婿とし、氏康の娘を義元の
子氏真の嫁にすることを約束。同年、下総の古河城を攻略し、
古河公方北条晴氏を相模の波多野に放逐。
1556(弘治 2)安房の里見義弘が海路、相摸に進軍し城ヶ島で
迎え撃つ。
1559(永禄 2)嫡子氏政に家督を譲る。
1560(永禄 3)上杉憲政から関東管領を譲られた上杉謙信が関
東に出陣して、1561(永禄 4)小田原城を攻めるが戦わずに軍を
引くのを待ち、補給に苦しむ謙信は鎌倉八幡宮で関東管領の就
任の儀式を行っただけで敗走。
1562(永禄 5)信玄とともに太田資正(スケマサ)の居城松山城を陥
落させる。資正と合流した里見義弘を1564(永禄 7)国府台で戦
い勝利。
1569(永禄12)謙信と和議を結び、7男景虎を養子として越後
に送る。
1571(元亀 2)氏政を常陸の佐竹義重(ヨシシゲ)に出陣させるが、
病没。
◎足利学校の復興を援助する。