藤原 広嗣
ふじわらのひろつぐ《ふぢはらのひろつぐ》
生年不詳
740(天平12.11. 1)
◇奈良初期の廷臣。藤原式家宇合(ウマカイ)の長子、母は石上麻呂
の娘、百川(モモカワ)の兄。
737(天平 9)従五位下に叙せられる。同年、不比等の子4人
の没後、橘諸兄(モロエ)は僧玄(「日」偏+「方」)(ゲンボウ)・吉備真備
(キビノマキビ)らと結び新興勢力となる。 738(天平10)広嗣は大養
徳守(オオヤマトノカミ)兼式部少輔に任じられるが、翌年には大宰少弐
に左遷される。
藤原氏の勢力を挽回しようとして、 740(天平12. 8.)玄ボウ
と吉備真備を除こうとして上表するが受け入れられず、北九州
の大宰府の兵ら5千を動員・挙兵、東上を開始。聖武天皇は大
野東人(アズマビト)を持節大将軍として1万7千の追討軍を西下
させ、九州各地で激戦。
筑紫国板櫃河畔で広嗣は敗れ、肥前国値駕島(現:五島列島)
から耽羅島(現:朝鮮の済州島)へ脱出しようとして肥前国松浦
郡で阿部黒麻呂によって逮捕。11月初め肥前で斬殺される。
◎『万葉集』に1首ある。
◎藤原広嗣の乱は、武力により律令国家に対抗した最初とされ
る。
また、恭仁京(クニキョウ)・紫香楽宮(シガラキノミヤ)への遷都の原因
や、天然痘流行とあいまって国分寺・東大寺建立の動機となっ
た。
◎この後、藤原式家は衰退。
◎東京都板橋区赤塚4丁目の氷川神社に「藤原広継」として祀ら
れている。