塙 保己一
はなわ ほきいち《はなは ほきいち》
1746(延享 3. 5. 5)
1821(文政 4. 9.12)
◇江戸中期の国文学者・古典学者。本姓は荻野(オギノ)、幼名は
辰之助、号は水母子(スイモシ)。堂号は温故堂。武蔵国保木野村
(埼玉県児玉郡保木野村)の農家に生れる。
5歳で病に罹り7歳で失明。13歳の時に江戸に出て雨富検校
須賀一(スカイチ)(本姓、塙)に入門。のち賀茂真淵(マブチ)らの門に
入り、国学・儒学・神道・医学を学び、抜群の記憶力により和
漢の学に通暁。
1783(天明 3)検校となる。
1793(寛政 5)幕府に願い、和学講談所を設立し、屋代弘賢(ヤ
シロ・ヒロカタ)らを育成した。
1819(文政 2)『群書類従』を完成。
1821(文政 4)総検校となるが、『続群書類従』の編集途上で
没した。ほかに『武家名目抄』・『蛍蠅抄』など。
(2)7歳で失明,……。
(11)五歳で失明。
(19)武蔵児玉の人。五歳で失明、……。
◆保己一忌[旧暦 9.12]。墓は四谷安楽院にあったが、1898(明
治31)廃寺となったため東京都新宿区若葉の愛染院に移された。
◎『群書類従』刊行当時の版木が渋谷区の温故学館に保存され
ている。