徳川 慶喜
とくがわ よしのぶ《とくがは よしのぶ》
1837(天保 8. 9.29)
1913.11.22(大正 2)
◇江戸幕府の第15代将軍。幼名は七郎麿・昭致、字は子邦、号
は興山。水戸藩主徳川斉昭(ナリアキ)の第7子、母は有栖川宮(アリス
ガワノミヤ)王女登美宮吉子(ヨシコ)(文明夫人)。
はじめ1847(弘化 4)一橋家を嗣(ツグ)ぐ。尊皇譲位・幕政改
革派(一橋派)に擁立されて、家茂(イエモチ)(第14代将軍)と将軍継
嗣を争ったが、家茂を推す井伊直弼(イイ・ナオスケ)ら南紀派に敗れ
る。安政の大獄の際には蟄居(チッキョ)を命ぜられ、1860(安政 7.
3. 3)直弼の死後許される。1862(文久 2)家茂の後見職となり、
公武合体・幕権維持を進める。
1866(慶応 2)家茂の没後、将軍に就任。小栗忠順らを用い、
フランス公使レオン・ロッシュの助言と援助を得て、欧州式の
絶対主義をめざし幕政改革に着手。
勢力の挽回ならず、松平慶永(ヨシナガ)・山内豊信らの進言を
受け、1867(慶応 3.10.14)大政奉還。12.10朝廷の使いとして
徳川慶勝(ヨシカツ)・松平慶永が慶喜の二條城に乗り込み、将軍職
・内大臣・正二位の返上と全ての幕府領地の返納を伝える。慶
勝の勧告により二條城から大坂城に移る。
12.22江戸の西の丸が放火され、逃れた犯人を薩摩屋敷は引
渡しを拒否し、さらに取締り役の酒井家に発砲する。12.24幕
府は薩摩屋敷を砲撃し焼き払う。この報らせが大坂に達し、旧
幕軍・会津桑名両藩兵が1868(慶応 4. 1. 1)「討薩の表」を捧げ
京都に入ろうとし、 1. 3鳥羽で桑名と薩摩、伏見で会津と長
門が戦い、 1. 5大坂に敗退(鳥羽伏見の戦)。 1. 6夜、慶喜・
老中板倉勝静(カツキヨ)・松平容保(カタモリ)・松平定敬(サダアキ)らは
海路江戸に逃れ、 1.12帰城。
松平兄弟・榎本武揚(エノモト・タケアキ)・大鳥圭介(オオトリ・ケイスケ)・ロッ
シュら幕臣・大名・旗本などの主戦論を聞き入れず、 2.12上野
寛永寺に謹慎し朝廷への恭順を表す。幕臣勝安芳(ヤスヨシ)(海舟)
と土佐山岡鉄太郎(鉄舟)・薩摩西郷隆盛の働きにより、 4. 4
勅使橋本実梁(サネヤナ)・西郷らが田安慶頼(ヨシヨリ)が留守を守る江
戸に入城、 4.11江戸城を明け渡し水戸弘道館に謹慎。同年、
徳川家処分決定により、田安亀之助(徳川家達<イエサト>)に宗家を
譲る。家達の封地の駿府に蟄居、1870(明治 3. 1.)許され、の
ち東京に移る。
1880. 5.(明治13)正二位に復する。1902. 6.(明治35)公爵。
将軍就任1866(慶応 2.12. 5)、退任1867(慶応 3.12. 9)。
◎新文明志向から豚肉を食べ、一橋家出身であったことから、
「豚一(ブタイチ)」とあだ名された。