徳川 斉昭
とくがわ なりあき《とくがは なりあき》
1800(寛政12. 3.12)
1860(万延元. 8.15)
◇江戸後期の水戸第9代藩主。幼名は虎三郎・敬三郎(ケイザブロ
ウ)、字は子信、号は景山・潜竜閣、諡号は烈公(レッコウ)。第7代
藩主治紀(ハルトシ)の第3子、母は外山氏、水戸第10代藩主慶篤(ヨ
シアツ)・第15代将軍慶喜(ヨシノブ)・水戸第11代藩主昭武(アキタケ)の
父。夫人は徳川吉子(ヨシコ)。江戸小石川藩邸に生れる。
幼少に会沢安(ヤスシ)(正志斎)の指導を受ける。長兄斉脩(ナリノブ)
に子がなく、藩内に幕府からの財政援助を期待して第11代将軍
徳川家斉(イエナリ)の子を藩主に迎えようとする上層保守派があっ
たが、藤田東湖(トウコ)・会沢安(ヤスシ)・安島帯刀(アジマ・タテワキ)ら
下士改革派に擁立され、1829(文政12)斉脩の死去により第9代
藩主を継ぐ。これにより東湖らの人材を抜擢し、藩政改革に当
る。
1841(天保12. 3.)銅の欠乏分を藩内の梵鐘を集めて大砲を鋳
造し、兵制改革を行ない鉄砲隊を編成し、攘夷論を鼓吹する。
同年8月、水戸弘道館(コウドウカン)を設立し文武を奨励、外国船
が日本沿岸に出没するのを憂えて海防を唱える。
斉昭の近臣結城寅寿(ユウキ・トラカズ)の訴えにより幕府に警戒さ
れ、1844(天保15. 5.)斉昭は隠居謹慎を命ぜられ、藩政は保守
派がにぎる。
1849(嘉永 2. 3.)幕府より許しが出る。
1853(嘉永 6. 6. 3)ペリーの浦賀来航により主席老中阿部正
弘に迎えられて、海防など幕政に参与。また藩の大砲74門を幕
府に献上、幕府の委嘱により石川島造船所を起して軍艦旭日丸
を建造、藩内に反射炉を築造し釜石で製鉄させるなど、武備充
実のため尽力。彼の攘夷論は表面は強硬で現実は外交交渉によ
る和と、封建制補強の「内戦外和論」であった。しかし、日米和
親条約は「戦(イクサ)の決心なくして和するは和でなく降伏である」
として憤慨する。
1858(安政 5)直弼が大老に就任して、勅許を受けずに日米通
商条約が調印( 6.19)され(安政の仮条約)、子の一橋慶喜を退
けて家茂(イエモチ)(紀州家)を世嗣(ヨツギ)( 6.25)とする及び、徳
川慶勝(ヨシカツ)(尾張藩主)・松平慶永(ヨシナガ)(春嶽)(田安家)ら
と大老に詰問し謹慎を命ぜられる。翌年、攘夷の密勅が水戸藩
に下り、水戸に幽居され城中で病死。
◎1842(天保13)水戸偕楽園(カイラクエン)を造園。