徳川 家斉
とくがわ いえなり《とくがは いへなり》
1773(安永 2.10.)
1841(天保12.閏1.30)
◇江戸幕府の第11代将軍。幼名は豊千代丸、諡号は文恭院。江
戸一橋邸生れ。一橋治済(ハルサダ)の長子、母は岩本氏。尾張第
11代藩主斉温(ナリハル)・尾張第12代藩主斉荘(ナリタカ)の実父。加賀
第12代藩主前田斉泰(ヤスナリ)に嫁した溶姫の父。
1781年、9歳のとき第10代将軍徳川家治(イエハル)の子の急死に
より養子となり、1787(天明 7)一橋家より継嗣。
田沼意次(オキツグ)を退け、はじめ白河藩主松平定信(サダノブ)
らを登用し寛政改革(財政緊縮・備荒貯蓄・文武奨励)を行わせ
る。
長ずるに及んで定信を疎んじ、1793(寛政 5. 7.)定信の辞職
をいれ、失脚後は老中水野忠成とともに自ら執政、奢侈・享楽
にはしり綱紀紊乱(コウキビンラン)。
この間、経済的発展による町人文化が向上し、江戸文化が爛
熟(文化・文政時代)。またこのころから1792(寛政 4. 9.)ロシ
ア使節ラックスマンや1804年レザノフが来航、蝦夷地の侵犯な
ど外交・国防問題が起き、対策に苦慮。
1816(文化13)右大臣、1822(文政 5)左大臣、1827(文政10)太
政大臣。
幕府財政の悪化に洪水・暴風雨などによる凶作、米価の高騰
などから幕府の威信がゆらぎ社会不安が発生。1837(天保 8. 2.)
大塩平八郎の乱が起こり、同年4月子の家慶(イエヨシ)に譲位し、
西の丸に隠居後も権力を握る(大御所時代)。
家斉の生活は子女55人、側室40人、大奥に仕える女中606人。
将軍就任1787(天明 7. 4.15)、退任1837(天保 8. 4. 2)。
(2)'41年1月30日没。
(16)没日は1841(天保12.閏1.30)。
(*)1781(安永10