高島 秋帆
たかしま しゅうはん《たかしま しうはん》
1798(寛政10. 8.15)
1866(慶応 2. 1.14)
◇江戸後期の砲術家。幼名は糾之丞(タダノジョウ)、名は茂敦(モチア
ツ)、通称は四郎太夫、字は子厚・舜臣(キミオミ)、号は秋帆。長崎
生れ。長崎取締役(町年寄)四郎兵衛の子。
1808(文化 5. 8.)フェートン号事件などの影響を大きく受け
る。
長崎町年寄兼鉄砲方。オランダ人について兵学・砲術を学び、
鉄砲・大砲の購入・鋳造に努め、門人に集団教練を実施。
アヘン戦争に刺激され、洋式砲術採用を幕府に建議。江川英
竜(ヒデタツ)(太郎左衛門)の支持を得て、1841(天保12. 5.)松月
院を本陣として武州徳丸原(トクマルバラ)(現:高島平)で弟子約100
人とともに洋式砲術の調練を試み、大砲射撃を実演。江川らに
教授、幕末西洋砲術家に多大の影響を与える。
一時、鳥居耀蔵(ヨウゾウ)の讒言(ザンゲン)にあい幽閉されるが、
1853(嘉永 6. 6.)ペリー来航を機に8月許されて召し出され、
1856(安政 3)講武所砲術指南役のち武具奉行格に進む。
訳書『高島流砲術伝書』がある。
◎松月院は東京都板橋区赤塚8丁目にある曹洞宗の寺で、秋帆
の遺品や「徳丸ヶ原調練図」などが保存されている。