平 将門
たいらのまさかど《たひらのまさかど》
生年不詳
940(天慶 3. 2.14)
◇平安中期の武将。平良将(マサヨシ)の子、平高望(タカモチ)の孫、平
国香(クニカ)の甥。
初め京都で摂政藤原忠平(タダヒラ)に仕え、検非違使になるこ
とを望んだが許されず、憤怒して帰郷、下総(シモウサ)国豊田に住
む。
のち父の遺領をめぐり一族の紛争から、 935(承平 5)伯父の
国香(高望の子)とその姻戚源護一族を滅ぼす。源護(マモル)の訴
えで京都の検非違使庁に召喚、翌年赦免。国香の弟良兼(ヨシカネ)
・国香の子貞盛(サダモリ)に攻められ、これを破る。また常陸(ヒタ
チ)国司藤原惟幾と争い、争乱は関東一帯に広がり、 939(天慶
2)常陸・下野(シモツケ)・上野(コウズケ)の国府を占領。
939(天慶 2)八幡大菩薩の神託を得たとして、王宮を下総国
石井郷猿島(サシマ)(茨城県猿島郡猿島町)に建て、下野・上野・
常陸・上総(カズサ)・安房(アワ)・相摸(サガミ)・伊豆・下総の八ヶ
国の国司を置き、左大臣・右大臣などをも任命、自らを新皇と
称し関東独立国をうち建てる。
ここにいたって朝廷は藤原忠文(タダフミ)を征東大将軍として
下向させたが、東国に到る前に、将門は平貞盛(サダモリ)(国香の
子)・源経基(ツネモト)(清和源氏の祖)・下野の豪族藤原秀郷(ヒデサ
ト)らに急襲されて討れる(承平・天慶の乱)。
◎このころの原始的武士団には強固な主従結合がなく、追討軍
の前に家来はすぐに背走し、『将門記』に「天下に未だ将軍、
自ら戦ひ死ぬることあらず」と書かれるほどの危機的状況下で、
将門は風上に陣取るが風が変り風下となり、風にのった矢で射
殺された。しかし、武士の台頭を告げる号砲でもあった。
死後、各地に将門伝説が生れ、民間で英雄として信仰を集め、
神田明神などに祭られ
る。
(2)良将の子,母は犬飼春枝の娘。(名)相馬小二郎。
(4)父は良持とも良将ともいう。相馬小二郎と称した。伯父国
香を殺して……。
(6)父良将は鎮守府将軍。伯父国香をころしたことから……。
(16)鎮守府将軍良将の子.相馬小二郎とも称した.叔父平国香
が護に組したのでこれを殺した.
(17)父は良持とも良将ともいう。母は犬飼春枝ともいうが、未
詳。「滝口小次郎」とも書く史料があるから……。叔父の国香と
……。
◎将門の独立国家では、元号を建てなかった。
(*)承平・天慶(ジョウヘイテンギョウ)の乱は、西国で藤原純友(スミトモ)
が起した乱を含む。