平 重盛
たいらのしげもり《たひらのしげもり》
1137(保延 3)
1179(治承 3. 7.29)
◇平安末期の武将。通称は小松殿・小松内府・灯籠大臣(燈籠
大臣)、法号は証空(一説に静蓮)。
平清盛(キヨモリ)の長子、母は高階(タカシナ)基章の娘。維盛(コレモリ)
の父。重衡(シゲヒラ)・宗盛(ムネモリ)・知盛(トモモリ)・徳子(トクコ)(建
礼門院)の異母兄。
1150(久安 6)14歳で蔵人、翌年従五位下、1155(久寿 2)中務
少輔。
保元の乱では父清盛と戦い、1157(保元 2)従五位上権大輔、
10月正従五位下左衛門佐、翌年遠江守を兼ねる。
平治の乱では清盛とともに紀伊に熊野詣の途中であったが、
その知らせに接し清盛が西国に走ろうとするのを止めて、とも
に帰京し藤原信頼(ノブヨリ)・源義朝(ヨシトモ)の軍を攻める。叔父
平頼盛(ヨリモリ)とともに待賢門の信頼を攻め源義平(ヨシヒラ)(悪源
太)を破り、六波羅に源軍が迫った隙に重盛は大内裏を占領し
源軍を敗走させる。その功により伊予守となる。
1160年、左馬頭・内蔵頭、1163年、従三位、1165年、正三位
参議、1166年、近江権守・左兵衛督・権中務言・春宮大夫を兼
ね、1167(仁安 2)従二位権大納言。病気で一時官を辞す。
1170(嘉応 2. 7.)重衡の子の資盛(スケモリ)が摂政藤原基房(モトフ
サ)から下馬をしなかったことで辱めを受けたとき(殿下乗合事
件)、重衡は清盛の報復を諌めるが、清盛は基房に徹底的報復
をする。
1175年大納言、のち右近衛大将・左近衛大将を歴任し、1177
年左近衛大将兼内大臣。六波羅の小松第に屋敷があり、小松内
府と呼ばれる。
1177年鹿ヶ谷(シシガタニ)の変後、清盛が後白河法皇を幽閉しよ
うとした際、「忠ならんとすれば孝ならず孝ならんとすれば忠
ならず」と諌止(カンシ)した話は有名。同年、東山の麓に一つ一つ
に燈籠をかけた48間の精舎を建て、燈籠大臣と呼ばれる。
1179(治承 3)病により東山に出家。
(2)生年は1137(保延 3)。証空((異)静蓮)。
'75(安元 5)大納言となり:安元 5は存在しない。
(4)生年は1138。
(6)生年は1138。
(16)生年は1137(保延 3)。
(*)1160(平治 2