有間 皇子
ありまのみこ
640[舒明12]
658[斉明 4.11.11]
◇大和時代の歌人。「ありまのおうじ」とも呼ぶ。孝徳天皇の皇
子、母は阿倍倉梯麻呂(クラハシマロ)(内麻呂)の娘小足媛(オタラシヒメ)。
645(大化元)の大化改新が落ち着いた後、政府内部に派閥
争いが生じる。 649(大化 5. 3.17)祖父の倉梯麻呂が亡くなる。
653(白雉 4)中大兄皇子・中臣鎌足らの政治改革により、中大
兄皇子・間人(ハシヒト)皇后・大海人皇子らが父の孝徳天皇をひと
り難波長柄豊碕の宮に残し大和へ引き揚げ、翌年父は悶死。
657[斉明 3]斉明天皇が失政により反感を得ていたので、身
に危険を感じ、有力な皇位継承者であることから逃れようと狂
気を装い、牟婁(ムロ)の温泉(白浜温泉湯崎)に行き病が癒えたと
いう。
658[斉明 4.10.]皇子の言葉により斉明天皇・中大兄皇子ら
は牟婁温泉に出掛け、その留守中に蘇我赤兄(アカエ)に反乱を扇
動される。その夜に赤兄自身に捕えられて、中大兄皇子に糾問
(キュウモン)を受けた後、紀州藤白坂(フジシロノサカ)(海南市藤白)で縛
り首にされる。
護送途中の辞世の句は『万葉集』に収められている。「磐代
(イハシロ)の浜松が枝(エ)を引き結び/真幸(マサキ)くあらばまた還り
見む」・「家にあれば笥(ケ)に盛る飯(イヒ)を/草枕旅にしあれば
椎(シヒ)の葉に盛る」。