有馬 晴信
ありま はるのぶ
1567(永禄10)
1612(慶長17. 5. 6)
◇安土桃山時代のキリシタン大名。名は鎮純・鎮景・正純のち
晴信、小字は十郎、通称は修理大夫。肥前国有馬城主。有馬義
直の第2子。
兄義純の早逝により家督を継ぎ、1576(天正 4)肥前国日野江
城主。
1579(天正 7)ヴァリニャーニから洗礼を受け、教名はジョア
ン・プロタジオ。1580(天正 8)有馬セミナリオを設立。1582
(天正10)大村純忠(スミタダ)・大友宗麟(ソウリン)とともに天正遣欧
使節を派遣。
1584(天正12)島津貴久と結び龍造寺隆信を滅ぼし、のち豊臣
秀吉に仕え、九州征伐(島津征伐)・文禄慶長の役に従軍。
1587(天正15)秀吉の禁教令により避難した宣教師・教徒を保
護。
1600(慶長 5)関ヶ原では徳川家康側の東軍に属し、小西行長
の居城安土城を攻める。
1609(慶長14)長崎のポルトガル船マードレ・デ・デウス号を
焼き打ち。恩賞として旧領地の回復を望み、徳川家康の側近本
多正純の家臣岡本大八(キリシタン)に贈賄、事が露顕して大八
に晴信の旧悪の長崎奉行長谷川藤広暗殺未遂をあばかれる(岡
本大八事件)。岡本大八は駿府で火刑、晴信は除封のうえ甲斐
国都留郡に流配されて切腹。
◎岡本大八事件は晴信・大八の両者ともキリシタンであったた
め、幕府のキリシタン禁制の発端となる。