千 利休
せんのりきゅう
1522(大永 2)
1591(天正19. 2.28)
◇安土桃山時代の茶人。千家流の茶湯の開祖。幼名は与四郎、
諱(イミナ)は宗易(ソウエキ)、斎号は不審庵・抛筌斎(ホウセンサイ)、利休
は居士号。泉州堺生れ。魚問屋田中与兵衛の長男。足利義政・
義尚の同朋衆千阿弥の孫とするが不詳。千道安(セン・ドウアン)・
少庵の父。
北向道陳(キタムキ・ドウチン)ついで武野紹鴎(ジョウオウ)に茶湯を学び、
侘茶(ワビチャ)を完成。大徳寺の笑嶺宗訴に参禅、宗易と改名。
1568(永禄11. 9.)上洛した織田信長に政商として接近、今井
宗久(ソウキュウ)・津田宗及(ソウキュウ)とともに茶頭(サジュウ)(500石)と
なる(三大宗匠)。
本能寺の変後、豊臣秀吉の茶頭(2000石)。1582(天正10.10.)
禁中茶会で秀吉を後見。1585(天正13)利休居士を名乗る。しだ
いに側近としての働きもする。1587(天正15.10. 1)秀吉主催の
北野大茶湯を宗及・宗及らと後見。
1589(天正17)亡父与兵衛の五十回忌に一門をあげて大徳寺山
門に金毛閣を寄進、楼上に等身大の自像を置き、秀吉の忌諱(キ
イ)に触れて追放。ついで茶器に法外な値段をつけて売ったこと
が発覚し切腹を命ぜられ、聚楽第(ジュラクダイ)外葭屋(ヨシヤ)町の
屋敷で自刃。しかし、切腹を命じた原因については定説がない。
◆利休忌(宗易忌)[旧暦 2.28]大阪府堺市の南宗寺。
[ 2.28]裏千家今日庵(コンニチアン)で追善茶会。
[ 3.27]京都市上京区小川の表千家不審庵。
(6)1585年秀吉が禁中茶会を催した際に利休居士という号を与
えられ……。
(2)'85(天正13)利休居士を名のり始め,……。
(17)天正十年十月、秀吉が行った禁中茶会に利休居士の名で出
席し……。
◎長男道安の義弟少庵が千家を継ぐ。