朱 舜水
しゅ しゅんすい
1600(慶長 5)<万暦28.10.12>
1682(天和 2. 4.17)
◇江戸前期の儒学者・中国明朝の遺臣。諱(イミナ)は之瑜(シユ)、
字は魯(「王」偏+「與」:補助4470)(ロヨ)、号は舜水、諡(オクリナ)は
文恭先生。父は朱存之。浙江省余姚(ヨヨウ)の人。
父を早く失う。朱永祐(シュ・エイユウ)・張肯堂(チョウ・コウドウ)・呉鍾
巒(ゴ・ショウラン)に学ぶ。恩貢生に抜擢され、明朝福王のから出仕
を命ぜられるが、政治方針と意見が合わず固辞。
清朝が台頭すると明朝の再興を図(ハカ)り援兵を求めて幾度も
来日したり安南(ベトナム)にも渡ったが成功せず、1659(万治
2)7度目の来日の際、柳川藩の儒者安東省庵(アンドウ・セイアン)の
懇請で長崎に留まり帰化。省庵は自分の俸禄の半分百石を贈り
経済的援助を行い弟子の礼をとった。朱子学のみならず王陽明
の実学も重んじ古今の礼法や建築にも精通、師事するものが多
数あった。
1665(寛文 5)小宅生順の推挙で水戸藩に賓客として招かれる。
同年8月水戸光圀(ミツクニ)の別荘に入り生涯を過ごす。光その慷
慨(コウガイ)の気は圀・安積澹泊(アサカ・タンパク)・林鳳岡(ホウコウ)・木
下順庵(ジュンアン)に大きな影響を与える。
常陸太田の瑞竜山に葬られる。
著書は『舜水先生文集』(28巻)・『舜水朱氏談綺』・『泊舟
稿』など。
(6)7度長崎に来航……。
(16)4度目の来朝のとき,長崎に亡命…….
(+)東大農学部の「朱舜水記念碑」の立て札。
七度目の長崎来訪にあたり……。
◎光圀が建立した湊川碑の背面には、前田綱紀に与えた楠公父
子の桜井訣別の図を賛した文が刻まれている。
◎湯島聖堂の設計を行ない、農事・造園・学制の指導を行なう。
◎東京都文京区弥生1−1−1の東京大学農学部(光圀の別荘
跡)の正門左側に「朱舜水記念碑」がある。