柴田 勝家
しばた かついえ《しばた かついへ》
1522(大永 2)
1583(天正11. 4.24)
◇安土桃山時代の武将。通称は権六のち修理亮。尾張国愛知郡
上社村生れ。妻は織田信長の妹お市(小谷の方)。柴田義勝の孫。
はじめ織田信長の弟信行に仕え、1556(弘治 2)林信勝ととも
に信行を擁立し信長を倒そうとして失敗。剃髪して許され、以
後信長の家臣となり、宿将として幾多の戦で戦功を立てる。
1575(天正 3)信長が越前を平定した後、越前北ノ庄に移り北
陸経略に当たる。1580(天正 8)越中を、1582(天正10)能登を平
定、越後の上杉景勝と対峙する。小谷城主浅井長政のもと妻、
お市が三女を連れて再嫁し小谷の方(オダニノカタ)と呼ばれる。
同年、本能寺の変の報を受けて北陸の形勢を考えているうち
に、羽柴秀吉に明智光秀の追討を先んじられる。
6月18日信長・信忠(長男)ともに亡くなり後嗣(アトツギ)が清
洲(キヨス)で話し合われる(清洲会議)。山崎の弔い合戦に加わっ
た信長の三男信孝(ノブタカ)を勝家・丹羽長秀(ニワ・ナガヒデ)・佐久
間盛政(モリマサ)らが推し、次男信雄(ノブオ)を滝川一益(カズマス)が
推し対立。光秀追討の勢いに乗る秀吉が、信雄は北畠家を、信
孝は神戸(カンベ)家を継いでいるからと、信忠の長男三法師丸
(のち秀信)を推し、反対するものがなく決定する。
11月信雄が岐阜で挙兵、12月勝家の養子勝豊が守る長浜城陥
落、翌年 1月一益の峯・亀山城陥落。勝家は雪解けを待ち1583
(天正11. 3.)越前で挙兵、盛政・前田利家らと柳ヶ瀬に布陣、
大岩山の勝利の夜半に不意を撃たれ、賤ヶ岳(シズガタケ)の戦に
大敗。居城北ノ庄に帰り、城に火を放ち小谷の方とともに自刃
する。この時、小谷の方の三女は逃がされ一乗谷に脱出。
(2)居城越前国北ノ庄に帰って……。
(4)越前北ノ荘(今、福井市)に自刃。
(6)北庄で自殺。
(16)居城北庄で自殺した.
秀吉との不和はお市(小谷方)を競ったことにあるともいわれ
る.
「甕破柴田」の伝説は後世の偽作.