真田 昌幸
さなだ ゆきまさ
1545(天文14)
1611(慶長16. 6. 4)
◇安土桃山時代の武将。幼名は源五郎。真田幸隆の3子、信之
(ノブユキ)・幸村(ユキムラ)の父。信濃上田城主。
はじめ武田晴信の近侍となり、武田の同族武藤氏を継ぎ、武
藤喜兵衛尉と称する。1575(天正 3)三河長篠の戦で長兄信綱・
次兄昌輝が戦死し、旧姓に復して信州上田城主となる。1580
(天正 8)上州沼田城を攻略し、武田勝頼より沼田一円を与えら
れる。
1582(天正10)武田氏の滅亡後、上杉・北条・徳川ら強豪には
さまれる立場となる。はじめ北条氏に属し、本能寺の変後は徳
川家康に仕える。1585(天正13)家康が北条氏と和睦した際、沼
田城を北条氏に渡すことを命じられ拒否。家康に上田城を攻め
られ、昌幸は幸村を人質として春日山に送り、上杉の援助を受
けて家康の軍を破る。
ついで豊臣秀吉に仕え、家康と和睦し長子信之を家康に出仕
させる。小田原征伐・文禄の役に戦功を挙げ、沼田城を回復。
1600(慶長 5)徳川家康の会津征伐に子信之・幸村とともに参
加するが、 7.21下野(シモツケ)犬伏(イヌブシ)で石田三成の密使が真
田の陣に訪れ、一家で協議して信之を残し幸村とともに上田城
に急行する。徳川秀忠の西上を上田城で阻止したため、秀忠は
関ヶ原の合戦に間に合わなかった。開城後、東軍に属した信之
が義父本多忠勝を通じ家康に助命を願い、幸村とともに高野山
麓の九度山(クドヤマ)に蟄居(チッキョ)。九度山中で病没。
(2)生年は1545(天文14)。
(4)生年は1547。
(6)真田幸村の項:生年は1545。
(16)生年は1545(天文14)。