佐久間 象山
さくま しょうざん《さくま しやうざん》
1811(文化 8. 2.11)
1864(元治元. 7.11)
◇江戸幕末の思想家・洋学者・兵学者。名は啓(ヒラキ)、字は
子明、通称は修理、号は象山(「ぞうざん」とも読む)。国善の子。
信州松代(マツシロ)藩士。
幼少から父に儒学を学び、1833(天保 4)江戸に出て佐藤一斎
の門に入り朱子学を学び、1836(天保 7)帰藩。1839(天保10)再
び江戸に出て神田お玉ヶ池に象山書院を開き朱子学を教授し、
また藩邸の学問所頭取となる。松崎慊堂(コウドウ)・藤田東湖・
渡辺崋山らと交わる。
同年、蛮社の獄で渡辺崋山・高野長英らが逮捕され、象山の
攘夷国防問題に対して関心が高まる。1841(天保12)藩主真田幸
貫が老中ついで海岸防備掛となると、象山は顧問となり海外情
勢を研究し『海防八策』を建言。
また1842(天保13)江川英龍の最初の門人となり西洋砲術を学
ぶ。さらに蘭学に志し坪井言道・黒川良庵に師事し西洋技術採
用による国防強化を志す。蘭書によって硝子(ガラス)製造・鉄鉱
開発などを企て、西洋科学の応用による殖産興業をはかる。つ
いで兵制・鉄砲も研究し、1848(弘化 5. 1.)洋式大砲を鋳造、
1849(嘉永 2)には歩兵調練書を藩士に講ずる。オランダ語彙の
編纂出版も企てる。
1851(嘉永 4)また江戸に出て塾を開き砲術兵学を教授し、門
弟は5百人を超え、吉田松陰・勝海舟・小林虎三郎・坂本竜馬
らが輩出する。
1853(嘉永 6)ペリー艦隊が浦賀に来航するに当たり老中首座
の阿部正弘に「急務十事」を進言し避戦を進言。翌年、松代藩の
軍議役として横浜警備の任務中、吉田松陰に密航を進め失敗し
たことから松代に幽閉される。
蟄居9年の間も西洋学問技芸の研究に没頭。開国論の実力者
として象山を招こうとする長州・土佐両藩主の運動により1862
(文久 2)赦免されて藩の改革に当たる。
1864(元治元)幕命によって上洛、朝廷に開国進取と公武合体
論を力説したため、攘夷派の浪士に刺殺される。
著書は『海防八策』・『荷蘭語彙』・『省ケン録』など。
◎『海防八策』:「海岸要所に砲台を築くこと」、「強力な海軍
を編成すること」など。