近藤 重蔵
こんどう じゅうぞう
1771(明和 8)
1829(文政12. 6.14)
◇江戸後期の旗本・北地探検家。名は守重、通称は重蔵、号は
正斎・昇天道人。町与力近藤右膳守智の次男。江戸駒込生れ。
山本北山に儒学を学ぶ。
1790(寛政 2)家を継いで先手与力。1794(寛政 6)学問吟味。
1795(寛政 7)長崎奉行手付出役。1797(寛政 9)江戸に帰り、支
配勘定方・関東郡代付出役と栄進。
1798(寛政10)松前蝦夷地御用、4度蝦夷地に渡り、択捉(エトロ
フ)・国後(クナシリ)方面を探検。択捉ではロシア側が建てた標柱に
かえて「大日本恵土呂府」の標柱を建てる。松前奉行設置に尽力。
譴責にあい1803(享和 3)小普請方。1807(文化 4)ロシア人の北
辺侵入に際し再び松前蝦夷地御用となり、5度目の蝦夷入りを
し宗谷に至り利尻島を探検。
1808(文化 5)紅葉山文庫の書物奉行。1819(文政 2)執政沼津
侯と合わず、大坂勤番の弓矢奉行に左遷させられ、大塩平八郎
と交わる。1821(文政 4)小普請入差控を命ぜられ、江戸滝ノ川
村に閑居。
晩年、子の富蔵の殺傷事件に連座、1826(文政 9)改易となり
近江大溝藩預かりとなりその地で病没。
(2)'98松前蝦夷地御用となり……。
(15)99年蝦夷地取締御用となり…….
(16)1798(寛政10)年松前蝦夷地御用を命ぜられ…….