岸 信介
きし のぶすけ
1896.11.13(明治29)
1987. 8. 7(昭和62)
◇政治家。佐藤秀助(ヒデスケ)・茂世(モヨ)の次男、佐藤市郎(イチロウ)
・音世の弟、佐藤栄作の兄。妻は良子(ヨシコ)、長男は信和、長
女は洋子。山口県吉敷郡山口町八軒屋(現:山口市)生れ。
中学3年の時に父秀助の実家の姓岸を継ぐ。叔父佐藤松介(マ
ツスケ)の経済的支援を受け、西田布施の高等小学校2年から岡山
の内山下(ウチサンゲ)小学校6年に転入。岡山中学校に入学、1910.
4.(明治43)松介が肺炎で急死したため、叔父の山口中学教師
吉田祥朔(ショウサク)の世話により山口中学校に転校。
1914(大正 3)第一高等学校入学。1917(大正 6)東京帝国大学
入学、1919(大正 8)高等文官試験に合格、1920. 7.(大正 9)同
校法学部独法科卒業。
同年、農商務省に入省、1933(昭和 8)文書課長、1935. 5.
(昭和10)工務局長。1936.10.(昭和11)退官。陸軍省軍事課満州
班長の片倉衷(タダシ)・関東軍参謀秋永月三らの薦めにより満州
国実業部総務司長に転進。三井・三菱の財閥は関東軍が反対の
ため、遠縁の鮎川義介を説得し日産(日本産業)を誘致。
1939(昭和14)商工省次官に就任して帰国。1941(昭和16)東条
内閣の商工大臣、のち国務大臣・軍需次官を兼任。1944(昭和
19)軍需省に行政査察使が設置され元商工相藤原銀次郎が就任、
東条との関係が険悪となり、内閣が解散。
太平洋戦争後、戦犯として逮捕され横浜拘置所・大森俘虜収
容所を経て巣鴨拘置所に移送。1948.12.24(昭和23)釈放。
1957(昭和32)病気で引退した石橋首相の後を継いで自由民主
党総裁となり第1次岸内閣を組閣。1960(昭和35)第2次内閣を
組閣し、日米安全保障条約の批准を強行し、国会で非難されて
国会を解散。
1967(昭和42)勲一等旭日桐花大綬章、受章。1979(昭和54)国
連平和賞、受賞。
正二位・大勲位菊花綬章が追贈。
(+)『岸 信介 −権勢の政治家−』岩波新書(新赤版368)
1995年 1月20日第1刷発行著者:原彬久(ヨシヒサ)
◎鮎川義介(ヨシスケ)・松岡洋右(ヨウスケ)とともに「満洲の三スケ」と
称される(ともに山口県生れ)。
墓は山口県田布施(タブセ)町の岸家裏山、静岡県御殿場市の富
士霊園(三菱地所系列の財団が経営)にも分骨されている。
◎信介の『瀘過器(ロカキ)』論は武藤富男『私と満州国』に「諸君
が選挙に出ようとすれば、資金がいる。如何にして資金を得る
かが問題なのだ。当選して政治家になった後も同様である。政
治資金は瀘過器を通ったものでなければならない。つまりきれ
いな金ということだ。瀘過をよくしてあれば、問題が起っても、
それは瀘過のところでとまって、政治家その人には及ばぬのだ。
そのようなことを心がけておかねばならん」と語ったことが記
されている。