茅野 常成
かやの つねなり
1667(寛文 7)
1703(元禄16. 2. 4)
◇江戸中期の赤穂浪士。赤穂藩士、横目付、禄高五両三人扶持。
通称は和助(ワスケ)、戒名は刃響機剣信士、吉良家の探索中の変
名は富田藤吾(トミタ・トウゴ)・町人助五郎(スケゴロウ)。美作(ミマサカ)出
身で、神崎与五郎(カンザキ・ヨゴロウ)則休(ノリヤス)と同じく津山藩森
家に仕えていたが、森家が無嗣絶家となり浪人し、1697(元禄
10)浅野内匠頭(タクミノカミ)長矩(ナガノリ)に召し抱えられる。
吉良家討ち入りでは裏門隊。三河岡崎城主水野堅物(ケンモツ)の
江戸中屋敷に預けられ、翌年、山中団八(ダンパチ)の介錯(カイシャク)
で切腹。