大村 益次郎
おおむら ますじろう《おほむら ますじらう》
1824(文政 7. 3.10)
1869(明治 2.11. 5)
◇江戸幕末の兵学者・明治軍制の創設者。幼名は惣太郎のち
亮庵・良庵、旧名は村田蔵六(ゾウロク)また藤原永敏と称する。
1865年大村益次郎と改称。周防国吉敷(ヨシキ)郡鋳銭司(スゼンジ)
村字大村生れ。長州藩の医者村田孝益の子。
1842(天保13)防府の蘭医梅田幽斎に学び、1843(天保14)豊後
の広瀬淡窓(タンソウ)に漢学を学ぶ。1846(弘化 3)大坂の緒方洪庵
の適塾で蘭学・医学を、さらに長崎で蘭学を学び、ふたたび適
塾に戻り塾長をつとめる。1850(嘉永 3)郷里で医業を開くが振
わず、1853(嘉永 6)宇和島藩主伊達宗城に招かれ雇士となって
軍制整備・軍艦建造などを指導。
1856(安政 3)宇和島藩士として江戸に出て、私塾鳩居堂を開
き教授する。幕府の蕃書調所教授手伝・講武所教授。桂小五郎
(木戸孝允)の推薦により1860年、長州藩に迎えられ、士雇・馬
廻士・手廻組・博習堂用掛などを経て藩校明倫館兵学寮教授。
1866(慶応 2)第二次長州征伐では石州口の戦で藩兵を指揮し軍
功をたてる。
ついで新政府に入り、戊辰戦争では軍務官・江戸府判事・鎮
台府民政会計掛のち軍務官副知事。
1868(慶応 4. 5.15)江戸城富士見櫓から官軍を指揮し、上野
の山に立て籠った彰義隊を半日で壊滅させる。
1869(明治 2)兵部大輔(七月〜九月在任)。近代兵制の樹立を
企てフランス式軍制を採用。世襲士族軍隊を廃し農兵徴募を主
張したため、反対派士族(旧長州藩士)に出張中の京都木屋町の
宿舎を襲撃され重傷を負い、2ヶ月後に死去。
◎靖国神社の参道中央に大熊氏広製作の銅像がある。
(16)没日は11.15。
(*)1860(安政 7