大塩 平八郎
おおしお へいはちろう《おほしほ へいはちらう》
1793(寛政 5)
1837(天保 8. 3.27)
◇江戸後期の儒学者(陽明学)・与力。幼名は文之助、名は正高
(マサタカ)のち後素、字は子起、通称は平八郎、号は連斎・中軒の
ち中斎(チュウサイ)。大坂町奉行与力大塩敬高の子。
篠崎三島に学ぶ。祖父の後見で14歳のとき与力御書方見習と
して出仕。1811(文化 8)定町廻。江戸の林家に入門し朱子学を
学ぶ。祖父の没後、家督を相続。1816(文化13)呂新吾『呻吟語』
を読み、知行合一の実践を説く陽明学に転じる。1817(文化14)
私塾洗心洞(センシンドウ)を設け子弟に陽明学を講ずる。
1830年、大坂東町奉行の高井山城守実徳(サネノリ)が江戸に転任
したおり、与力職を養子格之助(カクノスケ)に譲り隠居。洗心洞で
陽明学の教授に専念。
1836(天保 7)天保の飢饉の際、豪商の手先となる町奉行らを
見て憤(イキドオ)り、格之助を通して町奉行跡部(アトベ)山城守良
弼(ヨシタダ)に飢饉救済を申し入れるが一蹴される。さらに三井
・鴻池(コウノイケ)ら豪商に救済費の借金を申し入れるがこれも断
られる。平八郎は蔵書5万冊を売り払い、その金を窮民救済に
当てる。
檄文(ゲキブン)を摂津・河内・和泉・播磨に飛ばし、1837(天
保 8. 2.19)自邸に火を放ち門下の与力・同心・門弟数十名ら
と「救民」の旗を立てて挙兵、豪商の蔵を討ち毀(コワ)し金や米穀
を窮民に与えたが、半日にして大坂城代・近隣諸藩の武力に鎮
圧される。約40日後、格之助との隠れ家を発見され、捕吏に包
囲された中で爆薬により自殺。二人の黒焦げの死体は塩漬けに
され、のち磔(ハリツケ)にされる。
著書は1833(天保 4)『洗心洞箚記(サッキ)』・『古本大学刮目』
など。
(*)1830(文政13