大久保 忠隣
おおくぼ ただちか
1553(天文22)
1628(寛永 5. 6.27)
◇江戸初期の大名。幼名は千丸のち新十郎、通称は治部少輔・
相摸守、号は道白。大久保忠世(タダヨ)の長男、母は近藤左近右
衛門幸正の娘。大久保忠教(タダタカ)(彦左衛門)の甥。三河国和
田郷生れ。
1568(永禄11)徳川家康の近習。姉川・三法ヶ原の戦の武功に
より、1572(元亀 3)治部大輔。1590(天正18)武蔵国羽生城主2
万石。1593(文禄 2)家康の三男秀忠の老職となる。1594(文禄
3)父の死後、小田原城主6万5千石を継ぐ。1605(慶長10)徳川
秀忠を擁立、本多正信とともに老臣として仕える。声望が高く
正信の反感を買い、忠隣の推挙した大久保長安(ナガヤス)の不正
が長安の没後に発覚し改易、井伊家お預けとなり近江に配流5
千石に減封。
(2)治部少輔……。
(16)治部大輔…….