大内 義隆
おおうち よしたか《おほうち よしたか》
1507(永正 4)
1551(天文20. 9. 1)
◇戦国時代の大名。幼名は亀童丸。大内義興(ヨシオキ)の長男・嗣
子、母は守護代内藤弘矩の娘。
1528(享禄元.12.)家督を継ぎ周防権介となり、周防・長門・
安芸・石見・備後・豊前・筑前の守護を兼ねる。1529(享禄 2)
従五位上。1530(享禄 3)左京大夫。1532年、自ら大友義鑑(ヨシア
キ)・少弐資元(ショウニ・スケモト)・少弐冬尚(フユヒサ)と戦う。1534(天文
3)筑後の星野親忠を斬る。1535(天文 4)大友義鑑と和議を結
ぶ。
1536(天文 5)大内・北条・今川・朝倉氏が朝廷に資財を献上
し、第105代後奈良天皇は即位の大典を挙げることができ、義
隆は大宰大弐に任ぜられる。1538(天文 7)朝鮮から『一切経』
・『五経朱子新説』を求める。
1540(天文 9)尼子晴久の安芸侵入を迎え撃ち、1541(天文10)
毛利元就(モトナリ)を援けて出雲に尼子氏を撃退。1542(天文11)出
雲に出兵するが晴久に敗れ、1543(天文12)山口に帰国。1550
(天文19)山口を訪れたザビエルに謁見、耶蘇教の布教許可を与
える。
義隆が文弱に流れ国事を寵臣に委ね、また家臣陶晴賢(スエ・ハル
カタ)(隆房)の所領を没収しようとしたため、晴賢は大友宗麟の
援助を得て同志杉重政らと反逆。義隆は長門深川大寧寺で自殺。
文芸を好み、上洛の際は清原枝賢・業賢父子を招き経学を講
じさせる。戦乱を避けた公家を多く山口に保護、大内本を開板。
(*)1532(享禄 5