足利 持氏
あしかが もちうじ《あしかが もちうぢ》
1398(応永 5)
1439(永享11. 2.10)
◇室町前期の武将。幼名は幸玉丸。第4代鎌倉公方(関東管領)。
足利満兼(ミツカネ)の長子。
1409(応永16)関東管領となり第4代将軍義持(ヨシモチ)の一字を
賜り、持氏と改名。1416(応永23)上杉禅秀(氏憲)の乱により鎌
倉から小田原に逃れるが、幕府の援助を受けて翌年鎮定する。
これを機に鎌倉府の強化をはかり、関東の諸将を討ち、幕府と
しばしば衝突する。1428(応永35. 1.)義持が没し、義教(ヨシノリ)
(義持の弟)が還俗して第6代将軍に就任したので、これを不満
とし「我尊氏(タカウジ)の胄(カブト)を以て管領の職を享(ウ)け、曾
(カツ)て又義持と父子の契約あり。今の時征夷の任に居るべきも
の、我を措(オ)きて果して誰ぞ。奚(ナン)ぞ膝を青蓮院の僧に屈
せんや。」と言い、幕府と対立する。持氏の執事上杉憲実(ノリザ
ネ)は和解に務めたが、かえって持氏と対立する。1437(永享 9)
憲実は鎌倉を出奔し領国上野に帰り、1438(永享10)持氏を討と
うと兵を動かす。将軍義教はこれを口実に憲実を援け鎌倉を討
伐する(永享の乱)。持氏は敗れて、武蔵国金沢で剃髪し謹慎(キ
ンシン)する。憲実が持氏を弁護したが、義教が許さなかったため、
翌年持氏は鎌倉永安寺で自殺する。
(*)第5代将軍義量(ヨシカズ)はすでに1425(応永32)病死している。
義教は青蓮院の僧であった。