浅野 長矩
あさの ながのり
1667(寛文 7)
1701(元禄14. 3.14)
◇江戸前期の大名。幼名は又一郎、通称は内匠頭(タクミノカミ)。父
浅野采女正(ウネメノショウ)長友(ナガトモ)の嫡子で、1675(延宝 3)家督
を継ぎ、播磨国赤穂(アコウ)藩主(5万3500石)。
兵学者山鹿素行(ヤマガ・ソコウ)に教えを受ける。
1701(元禄14. 2.)歳賀の勅使(大納言柳原資廉<スケカド>)接待
役にあたり義礼の指導を典礼に詳しい高家(コウケ)筆頭の吉良上
野介(キラ・コウズケノスケ)義央(ヨシナカ)に仰いだとき、賄賂を贈らなかっ
たことから指導を受けられず、侮辱されて 3.14江戸城中(殿中
松廊下)で義央に刃傷(ニンジョウ)に及び、居あわせた梶川与惣兵
衛(ヨソベエ)に後ろから羽交い締めで制止される。騒ぎは側用人
柳沢吉保を通じて将軍綱吉(ツナヨシ)に知らされ、田村右京大夫(ウ
キョウノダイブ)建顕(タテアキ)の邸(芝愛宕下<シバアタゴシタ>)に預けられ、
同日庭先で切腹を命ぜられた。一方、義央は御役御免のみであっ
た。
辞世の句は「風誘ふ 花よりも尚(ナホ) 我は又(マタ)/春の名残
(ナゴリ)を 如何(イカ)にとやせん」。
◎長矩の妻は備後国三次(ミヨシ)城主浅野因幡守長治(ナガハル)の次
女阿久里(アグリ)。111111111111111111111111111111111ようぜいいん(瑤泉院)
三次浅野家は赤穂浅野家と同じ芸州浅野家の支藩・同族であ
る。
◎浅野大学長広(ナガヒロ)は長矩の実弟で、長矩に子がないため
長矩の養嗣子。
『仮名手本忠臣蔵』では「塩谷(エンヤ)判官」。
(2)生年は1665(寛文 5)。
(4)生年は1667。
(6)生年は1667。
(16)生年は1665(寛文 5)。
◎吉良の浅野いじめの原因は、新式の製塩技術を吉良に教えな
かったことに対する報復という説がある。